風月菴似雲示寂地
踞尾村北村氏が家也
此桒門常に和哥を詠し諸國めぐりこゝに寄宿して没しけるなり
近世畸人傳云
僧似雲始の名は如雲安藝國廣嶋の人也
哥を好み都に登りて儀同三司實陰公に学ぶ
名山霊地こゝかしこにあそひ住所を定めされば世に今西行といへるを聞て自も
西行に姿ばかりは似たれどもこゝろは雪と墨染の袖
と戯れけるこの上人の墓所さだかならぬを歎きて石山の救世菩薩に祈り其霊告によりて河内國弘川寺をもとめ得たり
そこにて唯行塚といひならはして其よしもさたかならさりしを石のしるしを建はた其寺に有ける肖像をも捜し出て堂を建立し自も山中に庵を結びて住り春雨亭といふ其時の哥に
並ならぬむかしの人の跡とて弘川寺にすみ染のそで
その庵のひろさ畳一ひら二ひらに過されは人々見て今すこしひろよといひけれは
我庵はかたもさためず行雲の立居さはらぬ空とこそ思へ
此山にあるほと又いづこにまれ一人住る時は掻餅といふもの二ひらを舌にのせて一日の糧に充飯炊く煩を除きけるとぞ中畧須广の浦に有ける時久しく絶たる塩竃を興しあらし山の麓大井の川辺には弘川とまたく同しきさまの庵をつくる
住かへん秋はもみちのさがの山春はよしのゝ花の下庵
苔清水の奥にしばし住ける跡あり其外髙野の奥龍門の瀧の辺など世離れし所々に住る趣は其自記おもひ草年並艸なとに見ゆ
八旬にあまりて和泉國蹲尾の豪冨北村氏に身をよせてそこにて没す
體は遺言して弘川におくる西行と同しさまの墳を築く
著す所右二記の外似雲聞書と題して儀同公の御説をたゞ事に書つけたるものあり雜話もまじれり又葛城百首といふものもあり下畧
此桒門常に和哥を詠し諸國めぐりこゝに寄宿して没しけるなり
近世畸人傳云
僧似雲始の名は如雲安藝國廣嶋の人也
哥を好み都に登りて儀同三司實陰公に学ぶ
名山霊地こゝかしこにあそひ住所を定めされば世に今西行といへるを聞て自も
西行に姿ばかりは似たれどもこゝろは雪と墨染の袖
と戯れけるこの上人の墓所さだかならぬを歎きて石山の救世菩薩に祈り其霊告によりて河内國弘川寺をもとめ得たり
そこにて唯行塚といひならはして其よしもさたかならさりしを石のしるしを建はた其寺に有ける肖像をも捜し出て堂を建立し自も山中に庵を結びて住り春雨亭といふ其時の哥に
並ならぬむかしの人の跡とて弘川寺にすみ染のそで
その庵のひろさ畳一ひら二ひらに過されは人々見て今すこしひろよといひけれは
我庵はかたもさためず行雲の立居さはらぬ空とこそ思へ
此山にあるほと又いづこにまれ一人住る時は掻餅といふもの二ひらを舌にのせて一日の糧に充飯炊く煩を除きけるとぞ中畧須广の浦に有ける時久しく絶たる塩竃を興しあらし山の麓大井の川辺には弘川とまたく同しきさまの庵をつくる
住かへん秋はもみちのさがの山春はよしのゝ花の下庵
苔清水の奥にしばし住ける跡あり其外髙野の奥龍門の瀧の辺など世離れし所々に住る趣は其自記おもひ草年並艸なとに見ゆ
八旬にあまりて和泉國蹲尾の豪冨北村氏に身をよせてそこにて没す
體は遺言して弘川におくる西行と同しさまの墳を築く
著す所右二記の外似雲聞書と題して儀同公の御説をたゞ事に書つけたるものあり雜話もまじれり又葛城百首といふものもあり下畧
今に風月菴似雲示寂地
似雲
似雲(じうん、寛文13年1月2日(1673年2月18日)- 宝暦3年7月8日(1753年8月6日))は、江戸時代中期の浄土真宗の僧・歌人。俗姓は河村氏。通称は金屋吉右衛門。安芸国の出身。
略歴
1709年(宝永6年)安芸宮島の浄土真宗光明院で出家し、法号は初め如雲と称したが、のちに似雲(西行の好んだ桜のことか)に改めている。1710年(宝永7年)上洛して、歌道を公家の武者小路実陰に学び、実陰の歌論を書き取って『詞林拾集』と著している。公家の実陰を通し公家や皇族とも親交があり、とくに歌人である一乗院宮尊賞親王とは親しかった。
平安時代後期の歌僧である西行を慕って諸国をめぐり、河内国の弘川寺に西行塚があるのを見つけ、西行堂を建立している。西行を慕った姿から「今西行」と呼ばれた。死後、弘川寺の西行塚の脇に葬られた。
歌集に『としなみ草』がある。